「宇宙と芸術展」ほか

冬期休暇がはじまったので「どっか行こうよ」と、同僚女4人で相談。年末年始に営業している展覧会は限られているので(デザインの解剖@21_21、篠山紀信@原美がやってたら行きたかった)、年末年始関係なく森美術館でやってる「宇宙と芸術展」へ。開館時間の10時に集合。混む時期の人気展は時間が命。到着したらチケット売り場に長蛇の列ができててうな垂れてたら、隣でやってる「マリーアントワネット展」で一安心。それでもけっこう混んでたけど。

想定よりかなり博物館っぽい内容で幕開け。曼荼羅図、竹取物語の絵巻、ガリレオ・ガリレイ天文学手稿などなど。江戸時代に自作の望遠鏡で天体観測を実現した、国友一貫斎による月のスケッチが印象に残る。古き良き文字が添えられた緻密な月のスケッチは、鑑賞者の価値観の時空を歪ませる。そのあと見たダヴィンチの手稿が、ほとんど左右反転の鏡文字で書かれていて驚く。ちなみに「左利きでそっちのほうが書き易かったから」って説があるらしい。なんだそれ(両手同時に文字が書けるとのこと)。とにかく歴史がらみのお宝が多く、途中から「開運!なんでも鑑定団」のナレーターに脳内で作品解説を読んでもらうようにしたらしっくりきた。

展示全体がざっくり「宇宙」で括られていて、ところどころで唐突に現代美術作品が登場するのはやや失笑。突然のグルスキー(もちろん被写体は恒例のカミオカンデ)、展示の隅でいきなり回ってる空山さんのお馴染みセクシーロボ、などなど。現代美術作品はほぼおまけ程度に考えておいたほうがよさそう。中では、この展示にあわせて新作を作ったティルマンス(アプローチがちょっとトーマス・ルフ的だったのはご愛嬌)、琥珀を宇宙にみたてたピエール・ユイグの映像などはいいアクセントだった。

後半になると会場でNHKドキュメンタリーが流れるようなガチの宇宙コーナーになるので、子ども連れにも遠慮なく推せる。個人的には火星の石のイロトリドリの断面、ベルリン映画祭で短編賞を獲った瀬戸桃子「PLANET Σ」あたりがよかった。〆に美術館横の飯屋でコラボメニューの「惑星と時空間のパフェ」をあーだこーだ言いながら食べる。会期は1月9日まで。

続いて、住吉でやってる「バラックアウト」展へ。12月25日までだったのに突然延期された、やった!。数年前からゴミ屋敷になっていたという一軒家が会場で、2017年には取り壊しが決定しているとのこと。その話を聞いた時点でやばそうな予感しかしなかったのだけど見事に的中。家の側面に殴り描かれた壁画、モノで意図的に塞がれた玄関。めちゃめちゃな作りの階段を上って2階に無理やり作られた入口へ。

今年の「会場ぶっ壊すから思いっきりやるぞ展」だと、歌舞伎町の二郎ビル跡地で行われたChim↑Pomの「また明日も観てくれるかな?」が思い出されるが、あれはかなり「まとまっている」ほうで(こういうこというと怒られそうだけど)、こっちは清々しく混沌。オフィスビルより一軒家のほうが、破壊されたときの「狂気度」が強いっていうのもありそう。作品それぞれの境目とか、コンセプトも一切わからないし、わからせようと特にしていない、勢いのみ。会場全体の不気味さが群を抜いていて「夜に絶対一人で来たくない」と思わず同僚に向かって連呼した。明るい狂気なのに負をはらむのは、「元ゴミ屋敷」っていうのも要素として大きそう。負は場所に染み込んでいて、すぐには拭えない。

こちらは1月8日まで。元旦もやっているようですが、休みの日も多いので要注意。

年末年始における展覧会の穴場は商業施設です。公営の美術館はみんなもう休み。次が表参道ヴィトン上でやってるピエール・ユイグ展へ。ここは元旦以外なら空いている。1本の映像作品がメインの展示で、ざっくりいうと南極大陸の探索結果を全く別の場所で再現するにはどうしたらいいか、という試み。とはいえ音楽モチーフの作品が多いユイグらしく、その「再現」のために交響楽団を用いるなど、仕掛けが大がかり。壮大な夢を見ている気分になる。20分ぐらいの作品(とそれに関連するある動物の立体の展示がある)。

小規模かつ入場無料スペースのいいところは、ひとつの作品に時間をがっつり取れるところ。さっきの森美術館の逆。人もあんまりいないので原宿の買い物ついでなどにちょうどいい。そいえば、今年は行く先々でユイグの映像を見ることがあったのだけど、ここではじめてインタビュー動画を見られた。コンセプチャルな言葉を紡ぐフランス人の色男。つまり「モテそう」。展示と同じぐらいの時間をかけて動画を見てしまった。こういうのって作品より印象に残ったりする。

最後に、すぐ近くにあるGYREでやってるアセンブルの個展へ。建築家集団なのだけど、恥ずかしながら去年「ターナー賞」を受賞するまで全然知らなくて、今回は勉強も兼ねて見てきた。受賞が発表されたとき「え、建築家集団が? ターナー??」と首をかしげたのだけど、建築家が獲るのも、そもそも集団が受賞するのも初だったのでそれだけはあってた。今回が日本初個展。

個人の感想ですが、GYREってざっくりと作品設置してあって、そんな掘り下げた企画展をやってる印象があまりなかったのだけど(もちろん企画とキュレーターよるのですが)、入口にある気合いの入った説明文を見た時点で「来てよかった」実感が湧く。愛があるな~(あと、説明文をちゃんと紙にして配ってる展示は好き)。

ターナーを受賞したのは、アセンブリリバプール・グランビーの地域住民と取り組んでいる地域再生型のプロジェクト。建物の改築や企画立案だけでなく、プロダクトのアイデアを地域住民に提供してその売り上げを再生事業にあてさせるといった手法の確立から関わるなど、かなり徹底した活動をしていることを知る。日本でも地域再生プロジェクトは多々あれど、建築家が「町の再生」までがっつり取り組む事例って、そんなにないのではないか。

たとえば、阿佐ヶ谷住宅の取り壊しが決まったとき、とたんギャラリーのような動きもあったけど、グランビーみたいに、過去20年にわたって住民主導で住宅再建計画から町を守る運動、みたいなことは目につかなったように思う(不勉強だったらすみません)。というのもグランビーの場合、相手が「権力者」だったゆえに、町の街灯を変えてもらえなくなるなど、町のメンテナンスが放棄されて荒廃して、かなり緊迫した状況だったらしい(って展示会場に書いてあった)。いわゆる実力行使。そういう背景事情まで教えてくれる展示はありがたい、勉強になる。

そんなアセンブリの作風は抜けがあってポップ。日本だと大野彩芽さんをちょっと思い出したり。建築家集団が地域住民と取り組んだプロジェクトがターナー賞に輝く、っていうところの問題定義まで踏み込みたいところ。こちらは会期が2月までで、元旦以外ならだいたいやってる。

いい展示ばっかり当たったのでうれしくなってケーキ買って帰りました。

レベルアップたのしい

2年ぐらい前から週1で通っているテニススクールのクラスが、初級から中級に上がることになった。集団スポーツは見るのもやるのもまったくだめなんだけど、テニスはある程度うまくなるまで自分との戦いという側面が強くて、ずっとフォーム改善のこととか考えていたらあっという間に月日が流れてしまった。まともにラリーができるようになるまで2年。

何かしら継続できる運動に取り組みたかっただけだったから、わざわざお金のかかるスクールにしなくてもよかったのだけど、結果的には「習う」という要素の強い道を選んで正解だった。この歳になってくると言い訳無用で叱咤を受ける機会がどんどん失われていて、頭ごなしに「今言ったこと全然できてないじゃない!!」と言われるのは新鮮だったりする。教えられる側の気もちは放っておくとどんどん薄れるので、まるで軽めのリハビリのようでもある。

あと、見た目とか年齢とか関係なくかっこ良くなれるのが、スポーツのいいところだなと再認識したり。スクールのあるフロアに上がるエレベーターに居あわせたチビハゲデブのおじさん(失礼)が、隣の上級コートですんごいサーブを放つのを見ると、反射的に惚れ惚れできる。誰もが努力次第で光り輝けるって尊い。逆に普段の生活が見た目とか年齢とかに無意識に左右されているのを実感する。

クラスチェンジに話を戻すと、「初球の中ではうまい人」というポジションにしばらく甘んじてやや天狗になっていたので、一気にまた下からあがっていくのが恐ろしくもありつつ、楽しみでもある。さっそく初の中級クラスに挑んだら、周りとレベルが違いすぎて苦笑しつつ、ということはこれからまた学べることがたくさんあるのだな~とひとりでにやにやした。久々に取ったメモの最後には「ぜんぜんだめで楽しい」とある。

そういえば一番最初にスクールで体験レッスンをしたとき、中高のときのキャリアが一応あったので「中級からスタートじゃだめですか?」とコーチに口答えをした覚えがある。無知ってすごい。

新田章「あそびあい」

あそびあい(1) (モーニング KC)

中学生のとき、仲の良かった女の子が、文字通り顔面蒼白で私のところへやってきて「怖い」と相談してきたことがある。話を聞くと、深夜帯に下世話なエロい番組を持っている地元FM局のパーソナリティーと仲良くなり、今晩意味深な時間帯に呼び出されているという。それを聞いて私がどんなアドバイスをしたのかは覚えていないが、彼女をとめなかったような気がする。漠然と「まあ自己責任だな」と思った、確か。


「あそびあい」は、倫理がほぼ抜け落ちていて、誰とでも体を重ねちゃう女子高生・小谷ヨーコと、彼女のことが好きで「至極まっとうな独占欲」をもつ男子高生・山下君の物語だ。テーマが濃いのでそこそこに読み疲れる覚悟で取り組んだのだけど、作画のさわやかさとヨーコちゃんの屈託のなさに救われてさくさく読めた。全3巻。「きもちいいことを逃すのもったいないじゃない」と心の底から悪びれなく話すヨーコの表情が、たまにDr.スランプのアラレちゃんみたいに見えることがあるのだけど、人間は善悪の境界がなくなるとロボットに近づくのだろうか(いや、この場合は作者の意図だろうけど)。

話が進むと、人の話をまるで聞かない鉄壁のようなヨーコの心にちょっとだけ変化が表れるのだけど、その変わりかたの具合がなかなか愛おしい。男性目線のご都合漫画にありがちなわかりやすい変化ではなくて、リアルに彼女の中で起こる変化が描かれている。人間そんなすぐには変わらない。変わらないけど何も考えていないほど馬鹿ではない。ここは作者が女性っていうのがすごく腑に落ちる点だった(あと、ヨーコちゃんみたいな考え方の人間は、人の忠告とか外部的な要因じゃなくて、結局のところ自分の内部の変化でしか変われないんだよな、と再認識)。

逆に、彼女の「あそび相手」に対して嫉妬してしまう山下君の心情は、おそらく「普通」で一番世の中にありふれているものなのだけど、なんだか共感したくないような「正しさゆえの気まずさ」に満ちた描かれ方をしている。話の後半で別の女の子との展開があるのだけど、これがなぜか…ものすごく…苦手だった。やっていることはすべて正しい(ただのバカップルである)のに、なんだかそんなやりとりが不自然なことに見えてくるる。「相手の心を動かすため」に取ってしまう過剰な行動は、己の欲望がそのまま表れたものなのではないだろうか、本当に相手のためを思ったらそうはならないのではないだろうか。悶々と考えてしまった。

そういえば、私の周りの性格の「イイ」大人で、「ビッチは(ある意味)女神じゃん!」と言い切った人がいる。そのときはあまりピンとこなかったのだけど、心が何かしらの理由でかけてしまっているヨーコを見ていると、確かにギリシャ神話の女神のようだな、と思った(あの神々ほど自分勝手じゃないけど)。心の痛覚が極端に鈍感な彼女は、まるで魚のように自分の身を差し出してしまう。周りは、いつかそのまますべて食い尽くされてしまう、と心配するのだけど、刹那的に生きる彼女の思考回路にはまったく引っかからないのだった。彼女のことは誰も「修理」できない。自身でOSのアップデートをしていくのを見守ることしかできない。

全体を通してあまり過剰に重い描かれ方はしているわけではないが、ヨーコの思考はやっぱり強烈なので、生々しいのが苦手な男性諸氏はちょっと警戒して読むべし(「モテキ」レベルで悲鳴をあげている友人が身近にいるのだが、そういう人には勧めない!!!)。ただ、するすると読み進められてしまう展開の中にヨーコが女神になった原因がちょこちょこ示唆されているので(彼女の本名が片仮名で「ヨーコ」って知ったときの何とも言えない感じとか)、そこを拾い上げていくだけでもけっこう読み応えはあるはず。

この流れで勧められる漫画としては、やっぱりなんかとてつもなく「欠けている」女を描いた安田弘之先生の「ちひろ」、「ビッチな女子なんてやだ!」という男性にはヤリチン野郎が主体でもっとロマンにあふれた武富智先生の「この恋は実らない」を、「全然平和じゃん!もっとエグいのが読みたいの!」という不謹慎な輩には村上かつら先生のサークルクラッシャー漫画「サユリ1号」を挙げときます。


冒頭の中学の友人ですが、悪い予感は見事に当たり、その後いろいろあって見事に奔放に花開く彼女を私は至近距離で眺めていることになった。家の境遇も私とやや似ていたので、彼女は身近な反面教師だったし、ヨーコちゃんと違ってそれなりに痛い目も見ていた。最後に話した会話が「私、これから渋谷とかじゃなくて中野が来ると思うんだよね」という実にどうでもいい内容で、随分前から連絡が全く取れなくなってしまった。彼女がどこかで平和に暮らしている気が全くしないのは、私が非情だからかな~。

あそびあい(1) (モーニング KC)

あそびあい(1) (モーニング KC)

 

尻が透けるパンツを奨励する

異常に下着にこだわる男性を何人か知っている。女性が纏う下着ではなく、自分が身に着ける下着についての執着で、自身の経営する古道具屋にお気に入りのブリーフ(しかも水色)を置き「これ僕が好きな下着なんです」とお勧めする知り合いが一番の狂気を放っている(否定しているわけでなく、むしろ賛辞を送りたい)。そういえばヴィンセント・ギャログンゼの白ブリーフがお気に入り、という有名なエピソードがあったけど、今も好んで履いているのだろうか。わざわざ日本から大量に取り寄せて。

そもそも女友達と下着についての話をした覚えがない。みんな何らかの基準でどこかから仕入れているのだろうけど、まるで話題にあがらない。みんな私の知らないどこかで闇下着会議でもやっているのだろうか。やってないか。

私自身「上下の色が揃ってればいいんだっけ?」ぐらいの意識しかないのだが、意識は低くともある程度の納得ができる買い物はしたいところではある。個人的に納得がいかないのは世の流れが「コットンは肌に優しい、最高の素材!」という風潮にあることで、私がコットンのパンツを「資本主義パンツ」と心の中で呼んでいることをここで改めて表明したい。だって! 洗うとすぐ素材もゴムも伸びるし! 耐久性に問題がありすぎるだろ!!!!! 「自分のよれよれになったパンツを干す」という行為は、人生における悲しい瞬間ランキングで上位にランクインしている。

では何を買おうか、と考えると、いわゆるキラキラした女性下着はまず論外で(さっきの「よれパンを干す」に「男受けが良さそうな」を組み合わせると破壊力ボーナスがつく)、シンプルの聖地である無印良品は完全にコットン教に飲み込まれているし(十数年前までは無印にも化学繊維の下着はあったのだが教祖が変わったのだろうか)。たいした期待もせず、よろよろと次の聖地であるユニクロに向かったところ、私は出会ったのである「ウルトラシームレスショーツ」に。

ウルトラシームレスショーツは縫い目がない化学繊維のパンツだ。そもそもの「パンツのゴム」という概念がなく、化学繊維なのでおそらく素材が伸びることもコットン素材と比べて少ないのである。手に取るとペラペラなので一瞬不安になるが、着用すると特に問題なし。ていうかペラペラなので畳むとものすごく小さくなる、省スペース。

で、このウルトラシームレスショーツには、ビキニタイプ、ヒップハンガー、メッシュバック、タンガ(いわゆるTバック)の4種類がある。いくつか買ってみたのだけど、おすすめなのが、ずばりメッシュバックだ。名前の通り後ろが通気性の良い素材になっていてなぜか尻が透ける!!!(公式サイトには「通気性が良く、女性らしいデザイン」と記載があるのだが「尻が透ける」のがなぜ女性らしいのか、なんとなくわかるけどあえて「謎」と定義したい)。後姿がセクシーな感じになるのだが、そんなことはどうでもよく、背面がメッシュになっていることによって「履くときに後ろ前がものすごくわかりやすい」のである。これ最高だ!!!(個人の感想です)。ということで大量買いをした報告です。

入江亜季「乱と灰色の世界」

 

乱と灰色の世界 1巻 (BEAM COMIX)

唐突に、自分の脚がちゃんとあるか確かめたくなる瞬間というか癖がある。とりあえず、つま先を地面に何回か打ちつけてみたりする。その大半が電車で揺られているときのことで、不安に駆られるのではなく「そういえばちゃんとあったっけ」ぐらいの気もちでやってくる。

そのあとは、右手の平を首の後ろにあてて、ほんの少しだけ左右のいずれかに回し、首の骨が軋むのを確認する。そうしてぼんやりと「あ、ちゃんとここに居るな」と実感がやってくる。この営みがいつ頃からはじまったのかはわからないが、これは私なりの「空虚感」からの離脱方法なのだろう、と思っている。

「空虚感」というものは現実世界はもちろん、漫画の世界でもなかなか理解しえない心の動きだ。そもそも人と共有できる類の代物ではなく、ほとんどが個人の日常や、あるいは強烈な出来事の陰に潜んでいる。誰かに話して理解されるものではないし、せいぜい個人の日記の中に留めることしかできない種類の感情である。

…と、思っていたのだけど「乱と灰色の世界」を読んだら、主人公の虚無感に同調して飲み込まれてしまった。物語のはじまりは、主人公(大人の姿に変身できる小学生魔法使い)とその一家を取り巻く鮮やかな魔法の描写(絵柄からにじむ圧倒的な楽しさ!)に魅せられていたのだけれど、途中からいつのまにか彼らの暮らす世界の温度が一転する場面に、読み手として立ち会うことになる。話の雲行きも変わり「あれ?」と手に持っていた本を裏に返すと、5巻から表紙のテイストがこれまでと変わっている(全7巻で完結済み)。それまでは「世界」が描かれていたのに、5巻以降は主人公がメインになる。作品そのものも一気に解像度の種類が変わり、手の中で展開する景色は、すっかりと一変してしまう。

1巻のamazonレビューの中で「キャラがかわいいけどストーリーとしてどこを目指すのかわからない(大雑把な要約)」という意見を見つけ、私自身も「ま、そういうもんだろ」と思っていたのだけど、よく考えると生き生きとしたキャラクターと華やかな魔法の描写が売りの作品のタイトルが「灰色の世界」なのか(“乱”は主人公の名前である)。節穴というか、読み手として何にも考えないで面白さを享受するだけの怠惰なスタンスに我ながら呆れてしまった。

あらすじについて多くは語らないが(Google is your friend!)、自分の中でも大好物の「キャラクター成長もの」でこんな気持ちになるとは思いもよらず、むしろこんなことが漫画で可能なのかと、心底驚かされた。

乱と灰色の世界 1巻 (BEAM COMIX)

乱と灰色の世界 1巻 (BEAM COMIX)

 

近藤聡乃「A子さんの恋人」

A子さんの恋人 2巻 (ビームコミックス)

最近発売された2巻を読み、それまでは「面白いな~」ぐらいだったのが「大変だ! クッソ面白い!!!!!!」に位があがり、身の回りの人に見境なく貸しまくっている。今手元にない4冊と、これを書くのにあたり今買ってきた1冊をあわせて計5冊(1巻が3冊、2巻が2冊)を所有中。この只事ではないこの事態をどうにかして伝えたい所存。

主人公とは思えないほどぼんやりした地味な女ことA子、人の懐にうまく入り込む調子のいい駄目男ことA太郎、性格の悪いインテリ眼鏡アメリカ人のA君(この二人がA子と「一応」付き合っている)、その他女3人(モテるが性格が悪いU子、真面目でモテないK子、自分のことを名前で呼ぶ女ことI子)の恋愛群像劇。全員そろって29歳。

キャラ立ちが面白いのはもちろんだけど、コマ割りや画面を埋める白と黒のバランス、ミニマルな描写なのに言葉を添える必要のない絵の説得力、そのすべてが美しい!(故にくだらないギャグシーンもなんだかとっても艶っぽい) 現代美術作家としても知られる近藤さんの底力が、漫画というフィールドで最大限に発揮されている。

帯や宣伝文句で煽られている「A子さんには恋人がふたりいる」というキャッチコピーの印象は、読み進めるたびに徐々に薄れ、この作品の面白さがそんな俗っぽいところじゃないところではないことにすぐ気づけるはず。いわゆる「あるある(こういう奴いるいる)」に頼り切るのではなく、描かれる心の動きの細やかな部分が、まるで酸素のように読み手の体内に入り込んで、じわじわと侵食される間隔がこそばゆい(でも自分の欠点に似ている描写が出ると、心の中で小さい絶叫が響きわたるのだが…)。

登場する5人は、全員がレッテルを貼りやすい、いわゆるステレオタイプなキャラクターでありながらも、それぞれがしっかりと「面倒くささの集合体」として描かれている。「私はK子に似てる」ではなく、A子の優柔不断さも、A太郎のずるさも、A君の葛藤も、U子のわがままさも、K子の要領の悪さも、I子の視界の狭さも、おそらくほぼすべて何かしら身に覚えがある、愛おしい駄目さだ。今のところ身近な4人ぐらいからこの作品の感想を聞く中で「誰かれが好き」という感想はあれども「アイツは嫌い!」という声は耳に入ってこない。「みんな違ってみんないい」が深いところで嫌みなく描かれている、まさに奇跡的なバランス。

また、こういったアラサー特有の人生転換期を作品の背景にすると、どうしても「こじらせ」「妬み」といった負の感情がにじみ出てきて、読み手をどんどん疲弊させることが多いのだけど、そういったストレスがほぼ発生しないのがありがたい(ちなみに最近だとそれが顕著なのは東○○○○先生の「○○○○○○娘」である)。これだけ「いい性格」の悪い人間がわんさか出てくるのに、そこが軽減されているのは、「絵」の力もあるだろうけど、近藤さんが「人の嫌がることをわかっている」からこそではなかろうか、というのが個人的な考えだ。

あと2千万字ぐらい褒め称えられるけど需要がなさそうなのでやめ。もし「1巻は読んだし、面白かった」という人がいたら迷わず2巻を読むべし。1巻は(おそらくだが)近藤さんも色々模索して描いているので、読み手との距離が若干遠いのだけど、2巻になるとそれがぐっと近づいてきてすごく楽しい。あと2巻は間違いなく「A君の見せ場」なので、A君推しの女性読者は必読である(A太郎みたいな阿保を死ぬほど知ってるので(主にバンドマン)個人的には全然惹かれない~!!)

コミナタのインタビュー(1巻発売時)が素晴らしいので最後に貼っておきます。

田島列島「子供はわかってあげない」

子供はわかってあげない(上) (モーニング KC)

去年、読んだ後にSNSに投稿していたテキストが私の感想の大半を物語っていたので転載します。自分のテンションの高さが異常。あとこれが田島列島さんのデビュー作だったのほんとに驚いた。

読み終わったあとの寂しさがありつつ、1、2巻じゃなくて上下巻であることがうなづける幸せかつ、続きを求めたくない華麗なフィニッシュ。扱ってる題材はハードなのにそれを武器にしない味付けと繊細で愛らしい展開。そして読み手がうっかり忘れたあとのボーイミーツガール。あとすんげえ細い笑いの殴打。マーベラス!!!!!

子供はわかってあげない(上) (モーニング KC)

子供はわかってあげない(上) (モーニング KC)

 
子供はわかってあげない(下) (モーニング KC)

子供はわかってあげない(下) (モーニング KC)