柳本浩市展「アーキヴィスト ― 柳本さんが残してくれたもの」

何かを見ているとき「ブランディングを廃したらそれはどう変わるのか」という怨念が、道路のガムみたいに頭にこびりついてしまっている。ギャラリーの外の道に放置されたアート作品をうやうやしく飾られた作品と同じ目で観ることができるのか、自分の好きな作家が匿名で何かしたときに、名前を知る以前と同様の感覚をもつことができるのか、など。怨念と書いたのは、自分が何かを好ましいと思っているときに顔をのぞかせるからで、例えば初見でとてもよいライブの最中に、メンバーのルックスをぜんぜん別の、極端にいえば自分があまり好ましく思っていないファッションとかに差し替えてみたりする。その結果は毎回わかっているのだけど、癖みたいなものになっているので仕方がない。それをあらゆる現象で試すたびに何がしたいのかと自分に問うけど、いまだにわからない。

自由が丘のsix factoryで開催されている柳本浩市展「アーキヴィスト ― 柳本さんが残してくれたもの」に行ってきた。「アーキヴィスト」は「アーカイヴ」に由来している言葉で、欧米の美術館などでコレクションの管理担当などがもつ肩書きだという。同展の会場には、柳本さんが世界各地から集められた牛乳パックや洗剤の容器、壁一面のガムの包み紙、雑誌のスクラップ、段ボールなど、膨大なコレクションがぎっしりと並んでいる。

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「膨大な数のコレクション」という言葉は「珠玉の名曲」や「全米が泣いた」と肩を並べる無に近い表現で、聞いた人によってそれっぽく処理されるとても便利な代物だ。会場を埋めるコレクションは柳本さんが遺したそれのほんの一部に過ぎない。柳本さんがコレクターとして好かれているのは、そのセンスだけではなく、すべてをアーカイブする精神だ。デザイナーなら誰もが知っているエアラインのノベルティや海外のかわいらしいアイテムの中に、よく見るとただの日本語のアイスの容器なども見つけることができる。「アノニマスデザイン」と言ってしまうとこじんまりした印象になるが、ただの人によってはただのゴミであるそれらを蒐集する感覚は、簡単にわかるものではない。

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例えば、会場にはラベルで分類されたファイル(展示で使われていたのはこれ)が100冊単位で並んでいる。一例をあげると「無印良品」と貼られた3冊のファイルには、店頭で配られている小冊子やチラシなどがぎっしりと収められている。奇をてらったものではなく、見覚えのあるものが多い。私自身も無印良品は好きなので、自分でも手に取ったことがあるものもあるが、いずれももう手元には残ってない。

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これらを集める意味は凡人にはわかりかねるものだが、そもそも柳本さんのコレクションは集めることが目的ではない。切符のコレクションを一例としてあげると、厚手の紙で作られた古い切符は、時代の流れにつれて薄い磁気の紙に変化していく。ここから読み取ることができるのは検札する仕組みに対応していったモノの姿であり、それは社会に縮図でもある。柳本さんはそれと同じ流れを無印良品のスクラップでやろうとしている。無印良品は、古い服を回収してリサイクルする「FUKUFUKUプロジェクト」を今でも実施しているが、柳本さんのスクラップには2008年頃の同プロジェクトの栞があった。これからわかることはこのプロジェクトが少なくとも10年近く継続しているもので、現在と同様に虫のアイコンが当時から使われているという「歴史」だ。ただ、無印はほんの一例にすぎない。柳本さんが同様に集めたエアライン関連の資料は100万点を超え、蔵書は90万冊、そのコレクションアイテムの総数は50億個を超えているという。

「伝説の」という言葉が嫌いなのだけど、柳本さんには伝説が多く存在する。会場には氏の年表が掲示されており、そこからは「植草甚一のコラムを発見。サブカルチャーにはまる」「ピンク・フロイドの来日コンサートに行く」「友人の父などにブルーノートのレコードを売りはじめる」「日本のロックはどうやって誕生したかを自由研究課題にする」「市川崑のカメラワークを研究する」など、とてつもない数の知識の幅を見ることができるのだが、読んでいるうちに「ある問題」に気づく。先ほど列挙した事柄のすべては年表の1972~1975年の中からほんの一部を抜粋したのだが、それぞれの西暦の横には3歳、4歳、5歳、6歳とそれぞれ添えてある(ちなみに前半のふたつが3歳のときの出来事だ)。

最初は本当に誤植だと思った。そのあと少しの間も半信半疑だったのだが、展示してあるこれまでのインタビューと、会場で販売されている数々の有識者がコメントを寄せた冊子を読み、信じられないけど本当なんだろうな、と感じている(つまりまだ頭の片隅でほんの少し信じられないでいる)。ちなみに柳本伝説で有名な話は「ナイキのエアマックスブームを作った」「1日1時間しか寝ない」「ビーチ・ボーイズの『smile』を自分なりの解釈で完成された(7歳)」などがある。信じるかどうかは自由だが、それらをはったりと勝手に判断するのはそれを裏打ちするさまざまな証言や「膨大なコレクション」を見てからでも遅くはない。柳本さんの視界と焦点はGoogle Earthのようなもので、ある意味で次元が異なっていることだけは展示の内容からあふれんばかりに伝わってくる。

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会場には集めた品々を研究した柳本さんの資料もあわせて展示されている。わかりにくいのだが、一番右下に書かれているのはデニムを染めるインディゴの化学式。

会期は6月4日まで。会場は自由が丘から徒歩10分強。超人を体感できる数少ない機会であることは保障できる。あと販売されているパンフレットは是非買ってほしい。おすすめというか必読。

参考書籍:冊子「YANAGIMOTO KOICHI - ARCHIVIST'S VISION」(会場で2000部限定販売)

柳本光晴「響~小説家になる方法~」

響?小説家になる方法?(1) (ビッグコミックス)

文藝誌業界に性格と才能が破格の新人(15歳女子高校生)が出てくる話。狭い業界の裏側と破天荒で才能あふれる主人公を描く漫画なんて鉄板じゃん?フィールドが文芸誌っていうのはめずらしいけど、同じぐらいの子を引きあいに出してライバルっぽくするとか、主人公の才能に触れた大人たちがどんどん心折れてく感じとか予想通りじゃん?「マンガ大賞」獲ったし読んどく?といったノリで手を出して読了後に平謝りしたくなる気もち、今。

主人公の性格が破天荒なのは読み進めるなかで重々思い知らされてるのに、予想をどんどん超えてくる楽しさ。作中で振り回される周りの大人キャラと同じ気もちで、読み手の自分も思わず半笑いになってしまう。暴力描写はあまり好きじゃないほうなのに、パイプ椅子で人が殴られるシーンで思わず笑ってしまった。はちゃめちゃな性格なんだけど、いちいち本人の理屈がとおってるところが好ましい(逆にそこの描き方が甘くて暴力性だけ際立った漫画は苦手だ)。いいぞ~、もっとやれ~!!!

今のところ(既刊6巻)まだ主人公が書いた小説の部分に関してのディテールはあまり出ない。音楽漫画などが顕著な「作中の作品どうするか問題(本作の場合は主人公が書いた純文学)」について触れられる機会も今後ありそうだけど、キャラの力がここまで強いとそんなに気にならないんだなあという発見。そういう意味では「業界あるある漫画」でもないし、このまま「作中作品不在」な感じで話を進めてくれたらいいなあとも思う。そこに「肝心の小説部分が描かれていない」とかごちゃごちゃいうのはナンセンス~。描かれないからこそ際立つところかなとも。

 

広瀬友紀「ちいさい言語学者の冒険――子どもに学ぶことばの秘密」

ちいさい言語学者の冒険――子どもに学ぶことばの秘密 (岩波科学ライブラリー)

GW中に会った同僚の子供(1歳9か月)がまあよく喋る。人や物の見わけがつくようになり、車を差しては「ブーブー」と呼ぶ。消防車と救急車の区別がつかなくて両方「きゅうきゅうしゃ!」と指を差し、大半の動物が「わんわん」になる。慣れないものだから「視界ってもう大人と同じように見えてるの?」と同僚にすっとんきょうな質問をしてしまったり。

あらゆる事と物に名称がついているっていうのを認識するまでのプロセスも気になるけど、この先の「文法と言語の習得方法」なんてもっと想像がつかない。もちろん親をはじめとする周りの人間とのやり取りの中で学ぶわけだけど、その詳細について考えたことなかったな、と専門書を頼る。

ちいさい言語学者の冒険――子どもに学ぶことばの秘密 (岩波科学ライブラリー)

ちいさい言語学者の冒険――子どもに学ぶことばの秘密 (岩波科学ライブラリー)

 

実際に子供を持つ、著者で言語学者の広瀬さんによると「言語習得について概論的な解説をするのではなく、生の観察から伝える本」ということで、同書には具体的な事例が語り言葉で書かれている(めっちゃ読みやすい)。子供言葉で「なんで死“む”の?」という誤用があるあるなのはわかるけど、なぜ活用方法が「死“む”」になってしまうのか(読んでその理由に納得)といった文法的な発見から、文の区切りを認識する前のエラー読みについて(五七五がなぜ気もちいいリズムなのかという解析にもなっている)、子供に「か」や「さ」に濁点をつけてもらうと正しく「が」や「ざ」を即答できるのに「“は”に濁点」が理解できない理由などなど、母国語の知らない知識と出会うことができる。

タイトルに「冒険」とあるように、文法の知識だけでなく、それを習得する前の子供のトライアンドエラー事例も多い。親から言葉の間違いを指摘されてもそれを鵜呑みにせず、脳内できちんと整理ができてから使うようになるまでのタイムラグがある話がよかった。人工知能もいいけど、身近な生々しい学習する知能の内面も見逃せないなーと。いま身近にちいさい言語学者がいる人にはぜひ。

東東京に鬱蒼と茂る

東京の西ばかりに住んでいるので、東東京には思い入れがあまりない。たまに足を運んでも休日の問屋街は人の気配がなくて、土日の飲食店はまるで潰れたあとみたいに薄暗い。ビルには空室が目立ち、耐震性の問題で長く入居をすることが難しいばかりか、密集して建っているため建て替えることすら困難な場合もある。

東東京にいくと「CENTRAL EAST TOKYO」(通称:CET)のことを思い出す。2003年から2010年のファイナルまで数回にわたったサイトスペシフィック型のカルチャーイベントで、空きビルの一室、地下、屋上、路上まで、東東京のそこかしこが舞台だった(2003年の開催は前身となった「東京デザイナーズブロック」)。当時はフルタイムで働いていたのでほとんど関われなかったけど、一度だけ展示会場の番をしたことがある。薄暗い、作品と一緒に知らない街のビルの一室にひとりでじっとしていると、居てはいけないところにいるような、非日常的な気もちになったりした。

近年は町おこし型のイベントもだいぶ増えて、モノによっては行政のお金がふんだんに使われるそれらの「正しさ」とか考えてしまったりすることも多かったりする。ただ、CETに関してはプロデューサーを務めた佐藤直樹さんの存在感というか、がむしゃらに何かやっている感じが根底にあって、集まっているボランティアの癖の強さも(どこにいってもイベントボラの人たちは妙で面白い)、なんだか野生のたくましさみたい雰囲気を感じたのを覚えている。薄暗い街にどこからともなく若者が集い、地下から低音が響いていたそれはさながらジャングルのようだった。

CETが終わってからずいぶん経って、東東京エリアはやっぱり疎遠だけど、アーツ千代田3331がある秋葉原にはちょこちょこ行く。先日みた佐藤直樹さんの個展「秘境の東京、そこで生えている」には、ここ数年のあいだ佐藤さんが取り組んでいる植物を描いた木炭画が3331のメインギャラリー内に並んでいた。照明を少し落とした会場はいつものホワイトキューブより闇が濃く、鬱蒼とした会場にはカンバスになっている木の香りと、ほんの少しの墨の匂いが漂っている。

佐藤さんは数年前にデザインの手をとめて、この絵画制作に軸を移すと発表し、これまでに幾度か木版画を発表している。作品の長さは100メートルを超え、会期中に150メートルを目指すという。CETの舞台になった地域で、佐藤さんが植物で壁を埋めていくさまは、場所と記憶が地続きになっているように感じる。

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余談1: 2005年頃に「佐藤直樹2chの自分板に降臨してバトってる笑」とデザイン仲間に教えてもらって見てみたら本当に本人で笑ったんだけど、あれって佐藤さんを象徴するできごとな気が今もしてる。 ここの349あたりから。 http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/art/1018143158/

余談2: タナカカツキさんの「オッス!トン子ちゃん」に出てくる岡本太郎作品の模写は佐藤さんが描いているので手元にあったら見てみてください。

10年目のごあいさつ

去年の秋頃からうすうすそんな気はしていたけど、この3月で入社してから10年経った。入社日は初旬だったように思うけど覚えていない。有給消化もせず、ほぼ入れ違いで入社したのではなかったか、どうだったか。やっぱり全然覚えてない。

入社時の職種は前職と同じウェブデザイナーだったのに、入社数か月の頃に社長から「ニュースサイト立ち上げるからそこでニュース書かない?」とかなんとか言われ、私もそれを承諾したのだけど、当時何を考えていたのかよくわからない。仕事で文章書いた経験もなければ、社内にそういう先輩がいたわけでもない。ノウハウもなかった。

入社する以前から社長とは個人仕事でウェブ制作してたから、なんとなく互いに「こいつ実はデザイナー向いてないな~」という雰囲気だけは共有していたのではないか、今思うと。自分の成果物に対してクライアントが大きなお金を払うだけのものを作ってる自信もなかったし、そもそもデザイナーになったのも、昔はウェブサイトってダサいのばっかりで「だったら自分で作ったほうがまだいいかな」と、友だちバンドのウェブサイトを作るのと同じ感覚で仕事にしたのだけど、数年経ったらそこそこにかっこいいウェブサイトなんて誰でも作れるようになってて、なんか別に私がやらなくてもいいか、という気持ちになってしまったのが原因だったり。

それで突然「ニュースサイトはじめる」と言われたときに何となく承諾したら「じゃあ、デザインとシステムは任せた」ってなって。これもまったくどうやったのか覚えてないのだけど、外部のシステムの人とギャーギャー言いながら、デザイン作ってシステム組んでもらって、体制も整わないままニュースサイト的なものをはじめてみたのだった。

当時は編集長と私しかサイト運用にかかわってる社員がいなくて、ニュース執筆も友だちに外注&内製でこなしていたから、私&友だち数十人みたいなはちゃめちゃな体制だった(会社の名誉にかけて補足すると数年後には内製だけになりました、さすがに色々無理だった)。プレスリリースをどうやってもらったいいのかわからないし、誰も正解など知らないし、私の教育係もいないし。よく考えると結局誰からも文章の書き方なんて教わらなかった。編集長は企画系の担当だったので、ニュースに関しては私の独壇場だったのだけど、なんとかなっていたのだろうか。よくわかんない。当時のことはやっぱり覚えていない。

苦労話はあまりしたくないけど、運用が自分一人でしかも受託の仕事(デザインもまだやってた)もあり、当時ニュースも一人で回してて、最初の数年間は修羅としか言いようがなかった。でも当時は若かったし「ここで自分が倒れたら全部終わる」というだめな使命感と気合いでやっていた、ような気がする。運用の仕事が21時ぐらいに落ち着くので、そのあと夜中まで受託仕事をやる、みたいな日々。土日も関係ないし、外の人にはそんな運用体制だなんておおっぴらには言えないし、当時は「外から見ると大きいロボットなんだけど、実際は一人で操縦とメンテナンスしててそれを誰にも言えない」ような感じだった。

ただ、そこまでボロボロだったのは最初の数年だけで、その後は順調に人も増えて今はそれなりの人数になりました。ありがたい。有給とかも取れちゃう。2年前ぐらいからいわゆるデスクになったので原稿もほぼ書いていない。仕事内容的にそこまで劇的に楽にはならないのだけど、まあそこそこやれている感じがする。

そういえば私がほぼ原稿を書かなくなったとき、チームの子に「たまには原稿書かなくて大丈夫ですか?」と聞かれて、私が「書くの嫌いだから別にいいよ」って答えたら「はい?」みたいな顔をされたのを覚えてる。自分でもそれでよく10年弱やってたな、って思うんだけど原稿書きが楽しかったことは一度もなくて、情報のアウトプットに必要だったから作ってただけだった(あ、でも記事タイトル大喜利は好きだった。いくつも案を作って戦わせるのは好き)。

自分にしかできない仕事をしたい、というありがちな気もちは皆無で、むしろ必要なのに誰もやっていないことがあると、自分でもよくわからないのだけどそこに係らないといけないような気もちになる。そういえば社長からの「ニュースやらない?」の声がけも、Twitterとかで気が狂ったように身近なイベント情報を紹介していた私のことを見かねてのものだった気がする。その当時(今もだけど)、友だちに映像作家とか劇作家とか役者とかバンドマンとか美術作家とかいっぱいいて、みんな一生懸命なのに世の中には全然そういうことが広まらなくて、その状況にめちゃくちゃイライラしていたように思う。それぐらいかな、この仕事やってた理由って。

で、ここ数か月で「あ、このサイトいい感じに回ってるな~」って思うようになって、ということはもうやらなくてもいいな、と思いはじめてきて。そしたらちょうど社長が10年前みたいにやってきて「別の仕事やってみない?」と言ってくれたので乗ってみることにした。というわけで4月から別職種なんですけど、これがまた今までのキャリアとか一切関係ないし、何をやったらいいのかも皆目わからないし、社内にノウハウもないし。ただ「あー、それは確かに必要だし、今の社内の人間でやるなら私か」と思ったのでまあ大丈夫かな、と。

長くなりましたが、今の会社に居てありがたいな~と思うことは、まだ全体的に不器用な会社だけど、理不尽な人間関係とかくだらないいじめとかなくて(まあみんな年も近いし、社長も私と1歳違いだし)、私みたいなすさまじく使いづらい人間のこともどうにか考えてくれるところとかあ、と。私だったら新しい職種の希望で「予算なし、クライアントワークなし、デザインなし、編集なし、できれば外部の人と会わなくて、あと難しくないやつ」とかいう社員が居たらとりあえず蹴っ飛ばすな~。蹴っ飛ばされなくてよかった。

余談:
この仕事やってる中で2つほど「こうなったら辞めよう」って思ってたことがあって。ひとつは日々届く色々なご案内に敬意を持てなくなったとき、もうひとつは何か変な業界人意識とか生まれちゃったとき。とりあえず両方とも該当しなくてよかった。

2016年11月23日(水・祝)

夜のバスタ新宿は初。深夜バスに乗って朝6時過ぎに仙台に着く。肌寒いとかじゃなくて明確に寒いが、天気が良いのが救い。仮眠を取ろうと漫画喫茶に入りかけてすぐに店を出る。調べたら1時間以内に出発しないと開館タイミングには間に合わない。目的地までのバス停を探し、出発まで近くのモスバーガーで朝食をとり、7時半頃に石巻行きのバスに乗る。最終的にこの日は24時間のうち4本、計16時間バスの中で過ごした。昨日も明日も仕事なので今晩には東京に帰る。

8時半に目的の石ノ森章太郎萬画館の近くまで到着。ここでやっている「ぼのぼの原画展」を見にきた。開館まで周りをふらふら。萬画館は海の近くにあるが、海岸まで歩いて20分くらいかかるため海は見えない。向かう途中に「この先 牡蠣小屋あり」の看板があって、看板から牡蠣小屋までの間には、原っぱと、あまり使い込まれていないきれいなバスケットコート。高い木は無く、大きな石碑が倒れている。遮るものがなにもなく風が強い。

9時に開館。原画展では、連載第一回の原画から表紙絵、単行本のパラパラ漫画、描いているところの動画などが、あまり広くないスペースにぎゅっと並べられている。作品を読むだけでは知ることができなかったことの宝庫で、表紙原画は実際の単行本よりもサイズが小さいこと、カラーの塗りは線が滲まないように白黒コピーしたものに施していること、ラッコを主人公にした理由のひとつが「ラッコが泳ぎの下手な不器用な動物」だということなどを知る。会場の入り口には、原画展に際してのいがらし先生のコメントがあり、ずっと宮城県で活動している同氏にとって仙台が子供の頃に馴染み深い場所であること、初開催となった原画展の地がここで本当にうれしいこと、などが綴られていた。

私の勝手な予想だけれど、これがいがらしみきお氏にとって最初で最後の原画展になる気がしている。何かの販促や祝いごとで自分を魅せようという発想があるタイプの作家ではない。30年間、仙台市で描かれた「ぼのぼの」という作品の原画展を、この石ノ森章太郎萬画館でやれるからこそ実現したのだと思っている。次の原画展があるとしたら、もう本人はこの世にはいないのではないだろうか。

2時間ほど悔いのないように見まわって、会場を後にする。石ノ森章太郎萬画館は宇宙船のような建物で、脚の生えた昆虫みたいに地上から浮いている。1階の天井高が8メートルもあり、5メートルの津波が寄せたにもかかわらず、5日間も臨時避難所として機能したという。次の目的地に向かうためにバス停を目指す途中、石巻で被害が大きかったという小学校について思い出して調べたら、今立っているところより8キロも、内地に位置していた。

バスでまた2時間を近くかけて仙台の市街地に戻る。次の目的地のせんだいメディアテークに着く頃には、開始時間の30分前でぜんぜん余裕がない。トークイベントの座席に着いてぼんやりしていると、隣にやってきた老夫婦がこれから何のイベントをやるのかと話しあっている。複合文化施設であるせんだいメディアテークは、図書館やギャラリーなどを備えており、建物を貫くように柱を貫通させるという独特な建築で作られている。初めて来たのだけれど一見しただけでこの場がしっかりと機能していることがわかるぐらい、様々な年齢層の人々で賑わっていた。そういえば、いいスペースには人が何となく集まってくる。ここでやっている展示の関連イベントなのだから老夫婦も全く趣旨を知らないわけではないだろうけど、誰が対談相手なのかどうかまでは把握してないらしい。

開始時刻になり、ここで今行われている写真展「まっぷたつの風景」の作者である写真家の畠山直哉さんと、対談相手であるいがらしみきおさんが会場入りする(このために宮城まで来た其の二)。さっそく、畠山さんがいがらしさんの大ファンで、大量のふせん紙が貼られた初期のいがらしみきお作品を携え、プロジェクターに作品を投影しながらいがらし作品の魅力を文字通り熱く語る。いがらしさんも「畠山さんは、彼が撮らなければ誰も知ることがなかったであろう光景を写す」と以前からファンだったことを明かす。対談依頼は畠山さん側からだったが、いがらしさんは快諾したという。

いがらしさんが最初に口を開いたとき、隣の老夫婦に「あ...」という表情が浮かんだのを見た。漫画家・いがらしみきお。本名、五十嵐三喜夫。1955年生まれ。24歳でデビューし、連載30年を迎えるヒット作「ぼのぼの」をはじめ、初期のエログロで不条理な4コマ、2005年以降はそれまでの画風を一変させた「Sink」「I【アイ】」「誰でもないところからの眺め」といったストーリー漫画などを発表している。幼少期から難聴をわずらい、自分以外の周りの人が「わかること」が「わからない」という事実が、氏の人生観や作風に大きな影響を与えているという。作品の原動力の根底には「怒り」がある。はじめて生で話すのを聞いたが、やはり話し方にかなり癖がある(私の父もかなり耳が悪く、既に補聴器なしでは片耳がほとんど聞こえないのだが、話し方はごく普通だ)。

正直、聞き取りやすい話し方ではない。2015年に放送されたWOWOWのドキュメンタリーでいがらしさんが話すのを見ていたのもあり、トークショーをやると聞いて驚いたのを覚えている。これまでにサイン会の開催はあったが、トークショーを積極的にやるタイプの人間でないのは明らかだ(あとで調べたら全くやっていないということはなかった)。でもそれでも話してくれるのが一ファンとしてうれしい。この日のトークは、いがらしさんと畠山さん、司会の女性、それといがらしさんの「暴走を止める係」として長い付き合いになる熊谷さんという男性が登壇していた。

ともに東北出身の二人を中心にしたトークは2時間以上におよび、ほぼ初対面だとは思えないほどに互いの懐に飛び込む(主にまったく遠慮なしのいがらしさんが)、スリリングな、見ているほうがひやひやするような対話だった。子どもの頃に幼い友人が溺れたのにすぐに助けに動くことができなかったという畠山さんの話を聞いたいがらしさんが、震災後に故郷の陸前高田を長い期間にわたって撮影している畠山さんに対して「助けられなかったということについての一種の贖罪かもしれない」と語り(畠山さんはこのトークの最中に3回ほど絶句をする。そのときの表情を私は忘れることができないいだろう)、東日本大震災が起きた後に震災をフィクションとして漫画で描いた(「I【アイ】」には津波のシーンが描かれている)ことについては「描かないということはありえなかった」と話す。アートと社会の関係性について言及したクレア・ビショップの著書「人工天国―現在の風景に何をみるのか?」をきっかけに「人工天国―現在の風景に何をみるのか?」と題されたトークの終盤で交わされた、「1年間で120万人が交通事故で死ぬ。問題はそれが起きているということもそうだけど、我々が“そうなんだ”と受け入れてしまうことでもある」という話などは、「俯瞰した尊大な視点で」作品を作ることを自らも認めている二人ならではの対話だった。

対談後に「まっぷたつの風景」を見る。これまでの代表作からテーマである「風景」に焦点を当てた展示だが、陸前高田を写した大量のコンタクトシートがやはり印象に強く残る。会場を回っていたら、いがらしさんを見かけたが、こういうときにどう話しかけていいのかよくわからない。名乗る者でもないし。もうこんな機会もないかもしれないのに、それでも屈託なく話しかけたりできない。

1時間ほど展覧会を見て、バス亭まで小走りで戻る。狭い車内で寝るのは得意で、起きたらまた新宿だった。

 

ぼのぼの原画展

対談2:いがらしみきお(漫画家)×畠山直哉「人工天国ー現在の風景に何をみるのか?ー」|せんだいメディアテーク

いつか潰れるその日まで

車の気配が近づいてくると、まずはフロント部分の飛び出した形状を確認する。私のところにそのまま突っ込んできた場合の、体に当たる位置を予想する。だいたいが腰のあたり。背後が壁なら挟まれて潰されるだろう。後ろに何もなければ跳ね飛ばされるか、ただ倒れるだけか。スピード次第かな、と思う頃には車はもういなくなっている。癖になっている思考だから、いちいち何もなくてよかったな、とか思わない。幼い頃の予想衝突ポイントはもっと胸に近い場所だった気がする。

自転車で道を走るときは、路地から急に飛び出てくる車や、急にドアが開きそうな大通り沿いの大型車両によって降りかかる災難が頭をよぎる。電車のホームで急行とか特急とか通勤快速とかなんでもいいけど、とにかく停車しないものが滑り込んでくるときは重心を後ろに置く、あるいは一歩下がる。後ろから背中を押す誰かを疑っているわけではないので背後は確かめない。起こるかもしれないことをただぼんやりと思う。

家の台所にはミネラルウォーターが20リットル、見えないところに置いてある。洗濯機の横には15リットルの非常用水(トイレ用)。部屋で踏み台にしてる頑丈なプラケースの中は、数日分の乾いた食料と下着、蝋燭、現金、軍手、ジップロック、靴下、ラジオ、絆創膏、水用のビニールタンク、銀色のガサガサしたシート、携帯用トイレ、トランプ、懐中電灯などが詰まっている。今の暮らしになってから、家の四つ足のご飯とトイレ砂を約3ヶ月分余計に買っている。組み立てられる二階建てのケージは押入れの奥に、折りたためるトイレとケージは天袋にあるはず。あと繋いでおけるハーネスも。週末に父親と会うことになっているので、不慮の事故で私が居なくなったりしたら、四つ足の面倒を見てくれないか聞くのを忘れないようにすること。

死なない程度にみる痛い経験も悪くないけど、できれば、痛いとか寒いとかは避けられるものは避けたい。身近な生き物が飢えたりするのも見たくない。用心して用意したすべての物には、出番がなくてずっと役立たずであってほしい。父親の誕生日は3月11日。私のはじめての従妹が生まれたのは22年前の1月17日だった。